注1:ネタバレ
注2:これは2019/07/25に書かれた
この作品は極めて多角的すぎる考察ができる。
それ故、考えがまとまらなすぎて映画自体としては2本めの記事を書くことになった。
前回:heliumu.hatenablog.jp (追記の、観客から嫌われる主人公の解釈は我なりによくできたと思う。)
語彙力も文章力も読解力も足りない。
そして、この先に書いてあるのはタダのご都合主義の妄想だ。
でも、今一度考えてみてほしい。
みんなが大好きな新海誠の本質って、これから僕がやろうとしていることと全く似たようなことをするやつじゃないのか?
つまり、“妄想を信じて全力で表現する”のが、新海なんじゃないか??
自分の結論(妄想)
本作は、人によって着眼点が違って、既に多くの議論が展開されている。
けれど、"新海誠は何も変わっちゃいない"というのが自分の結論。
次のエントリーを読んだ。
ちゃんとこの作品を理解できた人ほど、「今までの新海誠ではない」といい、わたしはたいしてよくわかってないくせして、わかったような顔をして「だって新海誠だし」でちゃんと理解しようとするとから逃げていたのかもしれない。これは反省すべきだなうん。
このエントリーの最後に書いてあることが引っかかった。
この前までの自分は、「新海誠は変わっていない」と言っていたが、実のところ思うことが多々あって、意見が右往左往していた。
このエントリーを読んでからはっきりと自覚してそのことについて考えるようになったが、結果は上のとおりである。
pencroft.hatenablog.com
これもちらっと読んできたんだけど、一番納得して、自分の結論が揺れたのは足し算と引き算の話。
今までの新海は引きまくって作ってあるから壊れそうなほど美しかったのに、最近は足しすぎてカオス。
「神様、これ以上『言の葉』あたりの新海になにも足さず、新海からなにも引かないでください」
って言いたい。
さて、この意見を読んで、確かにこの視点から見たら新海は変わったって言うしか無いな、と思った。
しかし、自分が思うのは(僕の視点では)こうだ。
変わったとしたらそれは表現方法とか周囲の環境の話であって、その根本は変わっていない。
新海が描きたいのは恐らく新海だけが見ているそれだけだし、インタビューとかの外部に発する声は、全部、描いた結果に対して「こうなんじゃないですかねぇ」って新海が新海を評論しているだけなんじゃないか。
新海って、多分それだけクリエイティブなんだよ。
クリエイティブの塊すぎて、自分でもよくわからないまま自分の中の描きたいものだけを描いている感。
それが前作で万人受けしたのは、周囲の環境による。
川村元気然り、RADWIMPS然り。
ただ、彼らを動かしたのは新海であり、しかし彼らは新海ではなかった。
川村元気を始めとするプロデュース陣は新海を盛大に飾り立て、RADの曲は、これを使って如何にして観客の心を掴むかに新海を注力させた。
それが出来損ないの大傑作である『君の名は。』だった。
このとき新海は確かに自分の世界を描こうとしたが、不完全燃焼だった。なにかのインタビューで言っていたように、新海たちは"チャレンジャーだった"のだ。
だから、今作はその教訓から、描きたいものをただ描く。
隠さない。怒られればいい。描きたいもんだけ描く。ご都合主義でもなんでも描く。スポンサーは大切にする。
RADは代弁者であり、曲は映像と同様に従える。
きっと自分が前回言いたかったことはこういうことだ。
見ている途中から湧き上がってきた感情は、「壊せ!観客の想いとか、ヒット作とか、そんなん関係ねぇ!!お前はお前の好きな世界だけを描いて、なにもかも観客の期待も諸共ブチ壊して、それでこれが新海誠だって言えばいいんだ!!!これが俺の世界だってドヤってシャウトして見せつけてやれよ!!!!」って爽快感。
我々の新海が大好きなこころって、そこにあるんじゃないか。
『君の名は。』に裏切られて本作で歓喜するのは、たぶん、新海がこころゆくまで描きたいことを描いてくれたおかげだと思う。
我々は、少なくとも僕は、描きたいことだけを描いている新海が大好きなんだ。
新海の描きたいものってのは、本当は新海にもわからないんだと思う。
描いてみて、出てきたもんが描きたかったもんだ。そういうものをいつも見てきた気がする。
妄想にお付き合いいただき、ありがとう。
ただ、"変わったか、変わってないか"という問いに思うことはこれが全部だ。
新海は何も変わってない。
メモ
注:メモです。内容の一貫性は保証しません。
<メモ1>
新海の独特の表現を感じられたのは少なくて、例えばビッグマックのシーンで帆高のモノローグがいう「僕の16年の人生でこれが間違いなくダントツで一番美味しい夕食だった」や、ラブホのベッドのシーンの目を見開いて口を固く結んで窄めた泣き出しそうな表情とか、そういうの。
悪く言えば一般的になってきた。(が、それ故に独特の表現はより光って見えるようになったも考えられる。)
描きたいことを描く気質は変わってないけど、表現の仕方は決定的に変わってしまったんじゃないか。
音楽と静止画(や風景カット)での表現や、それにモノローグをつけたのって本当に少なくなった。
<メモ2>
過去作?君の名は。はあくまで最大に世間一般向けに頑張った作品じゃない?
新海誠ってそうじゃなくない? 最後は机にすげえ音立てて“わだかまり”って書いた書類の束を置いていくような男だよ?????
って自分のTwitterに昨日書いた。
結局思うことは、今回はわだかまりの塊は置いてってない。
そりゃ途中途中に賛否両論な色んな書類を置いてってくれるんだけど、最後は「これ、まとめといたよ」って完璧に完成されたものが置かれる。
誤魔化したところとか、キャラクターの背景がわからないところとか、そういう置き土産ではなく、最後の置き土産の置き方がここ2作で変わったなと思う。
今までは敢えて煮え切らないように絶妙な火力に調整してたのが、最後の最後で煮え切らせた。
じっくり煮詰めて、観客に「それでそれで...!?」と思わせたままにしていたのが、遂に、「こうです!!!」って完全に煮詰め終わらせるって感じ。
<メモ3>
昔の新海が描いていた塩みたいな顔のキャラクターも、あながち嫌いじゃない。
<メモ4>
新海は永遠にすれ違いの物語に魅せられている。
最後のシーンは
自分も最後のシーンは読解不足かもしれないからもう一回考えてみた。
「僕たちは、世界の形を決定的に変えてしまったんだ。」
冒頭から答えを書くのはレポートと同じで、聞き手に伝えたいことをわかりやすくするためだ。
だから、この一文こそ結末のすべてであり、分かって仕舞えばこれ以外にあり得ない。
僕たちは大丈夫で、誰も気づかないけど2人だけが知っている。世界を変えたのは確かに僕たちだ。
陽菜は“自分のために願った”。
陽菜は、誰かに言われたから世界を変えるなんてことはしない。
自分のために願ったからこそ、世界はその小さな肩の乗って見える。
陽菜は自分の選択の意味・重さを解ってたけど、帆高が解っていなかったことはエピローグを見れば誰でもわかるだろう。
帆高は陽菜にかける言葉を決めかねて、適当に言葉を寄せ集めて見繕って田端駅の改札をくぐる。帆高はまだわからない。
しかし、必死になにかを願っている少女を捉えた時、自分がいかに愚かな言葉をかけようとしたのか気づく。“世界なんてこんなもんか”って誤魔化した自分の心に気づき、やっぱり自分たちは世界を変えてしまった、そして陽菜はそれをずっと一人で背負ってきたんだ、って。
だから君の大丈夫のなりたい。
かけようとした言葉は、ただ君を大丈夫にしたいだけだった。 そんなのはなんの意味も意思もない言葉で、だから「僕たちは大丈夫」なんだ。
すれ違いを終え、本当の意味で2人はここで出会うのだ。
結論
書きたいことはまだいっぱいあって、でも全然まとまらないのでこれくらいにします。
近いうちに3回目を観に行くと思う。
ありがとう新海さん。
おまけ
本田翼の「こんな会社腰掛けよ」ってセリフが、新海さんが「君の名は。なんて腰掛けよ」って言っているようにしか思えなくなってきていけない。
『君の名は。』?
好きですよ。最高のエンタメです。
今日の仕事帰りにたまたまローソンでコーヒーを買ったら特装版だった。
僕の21年の人生でこれが間違いなくダントツで一番美味しいコンビニコーヒーだった。