今朝、5時40分過ぎに急に目が覚めた。
「マクド食べたい。」
東上線直通副都心線電車内
発売日の仕事終わりに、新海誠の『天気の子』を買って、その日のうちに読んだ。
はじめての印象は「劣化版君の名は。」
うーん?と思ってパラパラと読み返しながらこの2日間くらい考えて出てきたことをこれから書こうと思う。
だからこれは、今の段階では書評でいいのかな?と思う。
千歳船橋のマクドにて
天気の子を見たという知り合いと、LINEでこういうやりとりがあった。
知人「主人公に共感できないことに引っかかる人は嫌いそうな作品だた」
わい「これな、今回共感できる主人公な作品つくってないよね」
知「よね」
知「そこに引っかかっちゃう人は無理そう」
わ「粋よね 捻くれ者の昔の新海がどうしても顔だしたよね」
わ「最☆高」
わ「(まだ見て)無いです」
知「おっぱい」
わ「ストーリー自体が君の名はの流れと似てるのはちょっと気になる」 わ「アニメ見たら全部誤魔化されてしまう気もする」
知「誤魔化されてるよ」
知「知らんけど」
知「おっぱい」
ソーセージエッグマフィンがうまい。
早起きしてマクドに来た甲斐があった。
本題に入ろうか
唐突に思い立って、メモ代わりに使っているTwitterのDMをすっ飛ばして以下の内容をTLに投げた。
新海誠作品には、"現実的な話/ファンタジー"の分類と、"会える/会えない"で分類できると考える。
"会える/会えない"というのは、物語の結末の部分。
希望があるかないか、って分け方でもあるけど、気づいたときに出てきた言葉が"会える/会えない"だったからこのまま使いたい。
これまでの作品を例に挙げると以下のようになる。
短編見てないやつあるので無視でオナシャス。
作品名 | 分類1 | 分類2 |
---|---|---|
ほしのこえ | ファンタジー | 会えない |
雲の向こう約束の場所 | ファンタジー | 会える |
秒速五センチメートル | 現実的 | 会えない |
星を追う子ども | ファンタジー | 会えない |
言の葉の庭 | 現実的 | 会える |
君の名は。 | ファンタジー | 会える |
天気の子 | ファンタジー | 会える |
このうち、作品内では会っていないが、閉幕後に会っているパターンは「会える」に分類した。
具体的には言の葉だが、作中では会えていないというか、雪野ちゃんは最後に救われるし、自立する。更に孝雄が最後に「会いに行こう」つってる。ので、"会える"。
で、この視点で見ると、最新2作は属性が完全に被っている。
はじめに読んだときに受けた「劣化版」という感想の原因は、おそらくここに一つある。ストーリーが劣化版。
新海さんは曲と作画と言葉の組み合わせがとてつもなくうまい(要は演出がうまい)と思っているけど、ストーリーがそれらの奴隷になりそうなギリギリで生きている感があって怖い。
映画を見れば納得できると思う、って言ったのは、おそらくその3つで殴られるからだと思う。
そのとき観客は陶酔気味になってしまって誤魔化される。
すごいのは、誤魔化せるだけの確実な力があることよな。
そろそろ出社よ
「世界の形を決定的に変えてしまった」のは、多分帆高が陽菜を選んだからじゃなくて、新海さんがそれをただ描きたかったからなんじゃないか?と思ってしまう。
なにを当たり前のことを、と思うのは早慶だと思う。ふつう、作者は作品を通して何かを伝えたり、作品の中の人物に寄り添って作品を仕上げるもんだと思うんだ。
たまらないんだ、これが。
あと、先に曲と作画と言葉の組み合わせがうまいって書いたけど、そのせいか曲の影響がすごい。
今は野田さん(RADWIMPS)の影響がすごい。それを活かすために序破急な描き方なってる感もすごい。
天門さんとのタッグ、復活してくれ。
出社
火曜日に殴られに行く予定です。