青パーカーの書き散らし

宗谷岬でまた会おう。旅の記憶と知識の記録。

2020.3.4 止観と社会(に疲れた)人

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@イースター島, Miyazaki Pref.

仏教には「止観」という言葉がある。
調べればいくらでも出てくるし、専門ではないので多くは語れない。しかしながら、自分は大本山永平寺のお膝元に生を受けているので(教養レベルには達していないにせよ)知識はある。

『摩訶止観』などの経典に代表される止観の教えは、「止」と「観」で構成される。

「止」・・・あるものを注視すること。特に、心を沈めて真髄を観測すること。
「観」・・・物事の無我・無情・空などである様を認識すること。

こう書くと中二病然としてしまうが、天才とバカが裏表のように、宗教と中二病もまた裏表なのである。
闇の炎に抱かれて消えろ!!!

これらを合わせると、†止観†とはすなわち次のようになる。

感情や煩悩といった自らの思考活動を注視して観測し、自らが世界をどう解釈しているのかを認識する。その上で、認識の無我であり、無常であり、空や苦などであることを理解すること。

「客観的」「冷静に」といった言葉と似ているフシもある。気づかずに使っている言葉も、その考え方は古代より受け継がれてきた考え方にルーツがあるのかもしれない。

ただし、自分の考え方は自分で構築しなければならない。
釈迦の教えの目指す所は、人々を煩悩から開放することにあるが、釈迦が教えを説いた時代と今の時代では随分と環境に違いがある。現代で完全な仏教観に立てば生活が成りゆかなくなる。釈迦が度が過ぎる苦行は却って逆効果だということを悟ったように、我々も度が過ぎる仏教感を持つ必要はない。
生きる上での悩みを捨てることは、古今東西あらゆる哲学が成し遂げようとしてきたところであるが、程よい悩みの中にこそ生活は存在するのだと私は思う。肉まんが食べたい。

つまり、何事に於いても打算的に行動するのだ。
例えば、死ぬほどお腹が減っていない状態で肉まんを買うことは、本質的には無意味であるし、無駄と言える。徒歩+電車移動の人が自転車を買うこともまた本質的には無意味であるが、しかし生きるということを考えたときには交通費や移動時間やその他諸々の問題がつきまとう。すなわち、長期的な視点に立った場合に「買ったほうがいい」という判断が起こる。これが打算的な行動である。投資と言っても良いかもしれない。

何かを買いそうになったとき、何かをしそうになったとき。
判断に迫られたときは、一度 †止観† することを心がけるべきだ。

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